「なんかもう正直コロナかかっていいくらいのイベント。なっても行ったことを後悔しない」
愛知県で行われたNAMIMONOGATARIとフェスが話題になっている。
出演者を見ると恐ろしいほど豪華だ。
えぇ!?やばない!?
と思うぐらい豪華だ。
ベテラン勢で言うとZEEBRAを筆頭にAK-69、般若、ANARCHY、AKLO、眞木蔵人(neva Enuffで有名なAKTION。ちなみにめちゃめちゃサーフィンカッコいいよ)
勢いある若手で言えばAwich、BAD HOP、JP THE WAVY、WILYWNKA、¥ellow Backs、更には舐達麻。
Jin Dogg、Red eye、LEX、GADORO、Shurkn Pap、Week dudus、なども出演している。
SOCKS観たかったなぁ。
さてこのフェスが批判されている理由は以下の通りだ。
・観客上限5000人を超えていた
・ノーマスクの観客が多い
・アルコールが提供されている
・ソーシャルディスタンスが取られていない
・それどころか演者がモッシュを煽る
もうみんな怒っている。
市長も知事も激おこである。
このフェスでHIPHOPはまたしても世間から冷ややかな目を浴びることになってしまった。
と言うことで、このニュースを見て思った事をつらつらと書いていくよ。
みんな久しぶりなのね。
マキバオーなのね。
「なんかもう正直コロナかかっていいくらいのイベント。なっても行ったことを後悔しない」について
「コロナコロナうるせぇなぁ」とニュースを見る度に思う。
だが、誰かに「コロナ怖いねぇ」と言われれば「そうですねぇ」と返す。
友達から飲み会に誘われれば参加するが、誰かが「コロナ怖いからやめとこう」と言えば「あーそうだね。また今度にしようか」と答えられるだけの社会性は持っている。
社会性というのは、言い換えれば「客観的な視点を持っているか」である。
自分がこの現場にいたら
「えっ大丈夫この状況」
となっていただろう。
そしてそういう人間の割合が多ければ多いほどここまでの騒ぎにはならなかったはずだ。
それぞれが自制し、
「あれ、マスクしねーとやばくね?」
「大声!飛沫飛ぶんじゃね?」
となりさえすれば大丈夫だった。
結局、客観的な視点を持っている人間=大人がHIPHOP界隈に少なかったからここまで大きく批判される状況になったのだと思う。
あーやっぱHIPHOPバカばっかりだもんね。
と、結論付けようかと思ったけどが、
ここまで書いたときにある考えがふと頭の中をよぎった。
「いや、客観的な視点の欠如こそHIPHOPっぽさなのでは?」
盛り上がってきたのでここからが本編でーーす。
HIPHOPは客観的な視点の欠如が核となっている
客観的な視点の欠如=「世間体を気にしない」というのは悪いことばかりではない。
むしろ表現者としては必須だと言えるだろう。
言い換えるなら「徹底的な自分目線」
となる。
確かにHIPHOPにはセルフボースティングや徹底した自分語りなど、その過剰な自意識の発現が核となっているように思える。
そしてその中でも一層心に刺さるのが「ラッパー自身の目線で描かれる物語」であり、「ラッパー自身の率直な感情」である。
そういった楽曲の世界には客観的な視点は何処にもなく、ただただ自分の目で見たもの、心で感じたものをありのままに綴る。
そこには余所者は存在しないし、他者から自分がどう見えているかという意識もない。
ただラッパー自身(もしくは周りの仲間)しか存在しない。
ラッパーの中から湧き出てきた飾らない言葉達に自分達は心を打たれるのだ。
それこそがHIPHOPの魅力であり、核となっているのではないかと思う。
そして「世間体の存在を感じつつ抗う」のはまた別の話である。
前にも記事で書いたように
・中学生の煙草吸ってますアピール
・成人式に出てわざと暴れる
などは「ルールがある」事を前提とした行動なのであまりかっこ良くない。
「自分がどう思われるか」を意識しての行動は、HIPHOPっぽくないな。
と思った。
しかし残念ながらこの日本で社会的に認められるアーティストになるためには「大人=客観的な視点を持つ人間」にならなければならない。
きちんとセルフプロデュースを行い、常に周りからの評価を気にした振る舞いを行わなければならない。
過去にセルアウトと呼ばれたラッパー達はセルフプロデュースがきちんと出来たからこそアーティストとして世間に認められた。
それに伴いHIPHOP界からの批判が増えてきたのも納得がいく気がする。
昨今話題のCreepy Nutsは特に客観的な視点で常に自分達自身を見続けているスタンスが多い。
アングラHIPHOPと自分達を比べて差異を客観的に見続けているCreepy NutsにHIPHOPを感じないと言われている所以はその辺りにあるのかなと勝手に納得してしまった。
結局HIPHOPはメインストリームにはなり得ないのかもしれないね。
憧れているだけのHIPHOPヘッズはタチが悪い
波物語の件に話を戻そう。
今回の観客の民度の低さと今書いた事は全く別だ。
自由に生きているラッパーに魅力を感じて集まっているHIPHOPヘッズの多くはただ「憧れているだけ」である。いやラッパー達ですら「憧れているだけ」と感じる人々は多い。
そんな人々が客観的に自分達を見れないのは悲しいかな当たり前である。
だから今回、ここまでの惨状になったのだろう。
自由に生きたいけどそれが出来ない、所詮小心者の集まりだ。
一般人が客観的な視点を持たずに振舞っているのは世間から見たらただのガキにしか見えない。
今回の騒動でHIPHOP界はさらに白い目で見られるだろう。
「みんながマスクしてないから俺も外しちゃえー」
「今日はなんかみんな自由だから俺も好きにやっちゃお!」
となっているのが容易に想像できる。
まとめ:他人の目なんかより鏡を見ろ byKOHH
周りの目を気にせずに自分の思うままに好きな事をする
言葉にすると簡単だが、行動に移すのは果てしなく難しい。
それを実現できているからこそ、KOHHやZORNのリリックには心惹かれるものがあり、HIPHOP界からも批判が少ないのだと自分は思う。
だが客観的な目線で自分の事を見れない子供のような存在をこの日本社会は許しはしない。
HIPHOPが今の日本の社会に認められないのはある意味必然なのかもしれない。
と今回の騒動を受けて思ったよ。
追伸:HIPHOP全体を批判しないでは都合が良すぎる
「HIPHOPは民度低い」
「ラッパーはこれだから」
など世間の反応は痛烈だ。
だかこの批判に対して
「HIPHOPで一括りにされたくない!」
と反論している人達が多く見受けられた。
がこの反論は全く納得性が無い。
HIPHOP界隈で皆が口々に声を揃える
「レペゼン」
という言葉は帰属意識ではなかったか?
都合のいい時だけ切り離すようなことはダサい以外の何物でも無い。
人間の目は良く知らない事柄に対して「個」を見ようとはしない
まずは「どんな人間か」よりも「どこの人間か」を見る。
組織が大きかろうが小さかろうがどこに所属しているかで見ている
今回の事は、世間の目は大きく「HIPHOP界」として捉えて、今でも根強く残る偏見(今回は事実だが)を深めていくだけだ。
HIPHOP界からこういう問題が出たと受け止め、反省する他ない。
というかぶっちゃけ今回の波物語だけではなく、昨年からクラブなどで行われていたライブは大体こんな状態だった。
ソーシャルディスタンスなんかまともに取らず大声を張り上げているイベントが多かった。
呂布カルマのこのツイートはそんな状況を目の当たりにしているはずなのに、自分達の事を棚に上げて波物語の主催者、出演者達を批判しているHIPHOP界の人々に向けられたものだ。
んじゃ。
渋谷で酒飲みたーーーいーーー